古墳の築造 村の共同プロジェクト

再現ビジュアル 第1回/よみがえる古墳の生活と社会

  • 文化

古墳は、3世紀半ばから7世紀に日本全国でつくられたお墓です。長野県安曇野市の穂高古墳群だけでも約90基の古墳が確認されていますが、詳しい学術調査がおこなわれたのはごく一部に過ぎません。そのひとつF9号墳を継続的に発掘しているのが國學院大學考古学研究室です。深澤太郎准教授に、調査でわかってきた築造当時の様子について解説してもらいました。
制作・Newton

1400年前の土木工事と葬送のすがた

この古墳は、烏川の扇状地に築造され、6世紀末から8世紀初頭まで機能したようです。烏川に由来する砂利層や川原石を利用して、墳丘と石室を構築した様子も見えてきました。築造当時の石室床面と思われる箇所からは、赤い顔料とガラス玉が見つかりました。顔料は遺体の周囲に塗ることがあり、そのあたりに被葬者の頭部があったと推理できます。また一緒に副葬された鉄製馬具には修理痕がありました。ヤマト政権の傘下にあったとみられる人物の古墳では、金メッキを施した武器や馬具などが副葬されることもありますが、そこまでには至らない地元の有力者の墓だったと推察できます。このように、残された遺構・遺物を手がかりに、古代の文化を眼前によみがえらせることができるのが、考古学研究の魅力です。

■石材の運搬 北を流れる烏川から石室の石材を運びました。現在、石室の上部を覆う天井石は失われていますが、幅2メートルほどの巨大な川原石を複数枚載せていたと推定されます。 ■盛土と石室 石室部分をまず布掘り(土台になる部分を溝状に掘る基礎工事)した上で、側壁の下段を据えたようです。後は一段ずつ側壁を積み、その裏に盛土を施す工程が繰り返されました。 ■古墳の墳丘 F9号墳が築造されたのは6世紀末。礫まじりの土を盛った円墳で、内部は横穴式の石室です。周囲に溝を設けていた可能性もあります。 ■副葬された品々 被葬者が身につけていた装身具のほか、やじりなどの武器や、馬具が副葬されていました。出土した土器から考えると、100年ほど祖霊祭祀が続けられていたようです。 ■築造中の様子を視察する有力者 二頭の馬と部下をともない、築造の進み具合を確認に訪れたところです。この古墳には馬具を副葬していますが、馬を生け贄にした痕跡はありませんでした。

深澤太郎准教授に聞くF9号墳の秘密

Q國學院大學考古学研究室は、2009年から定期的に安曇野市のF9号墳の調査を続けてきたそうですが、2015年の調査で、ついに横穴式石室の床面らしきものが確認できたと聞きました。

Aはい。石室の内部を慎重に掘り進めてきた結果、一様に砂利を敷き詰めた可能性のある面が出現したんです。そこには、幾つかのガラス小玉と一緒に、周りの土とは明らかに異なる赤く染まった土が広がっている部分がありました。赤い土は第二酸化鉄。いわゆるベンガラで、遺体の周囲に塗られた顔料ではないかと考えています。ガラス玉が装身具だとすると、そこに遺体が安置されていたのでしょう。他の副葬品から考えると、この人物が埋葬されたのは6世紀末頃のことだったと考えられます。

穂高古墳群F9号墳。

Q埋葬された人物の骨や、木の棺はなかったのですか?

A日本の土壌は酸性が強く、人骨や木材はほとんど腐食してしまうので見つからないことが多いのです。たくさんの釘が出土したことから、木棺があった可能性が指摘されている古墳もありますが、いまのところF9号墳では見つかっていません。

Qさらに下の方から副葬されているものが見つかる可能性はないのですか?

A床面と思われる層の直下を部分的に掘ってみたところ、黄色っぽい砂礫層がみつかりました。これは、古墳の北を流れる烏川が形成した自然堆積層と考えられます。ですから石室の床面は、この砂礫層より上にあったことは間違いないでしょう。

Q古墳築造の様子はどうしてわかったのですか?

A僕たちは、石室周辺だけでなく、墳丘にも何箇所かトレンチ(調査溝)を掘って調査しています。トレンチの土層断面を観察すると、自然の地形を改変した様子や、人工的な墳丘・石室を築いていった過程が見えてくるのです。F9号墳では、基盤となる砂礫層のうち、横穴式石室を構築しようとする長方形の範囲を、最初に少し掘り下げていたようです。この基礎工事を「布掘り」といいますが、掘り下げた部分の内側に沿って石室の壁の下段にあたる石を据えていきました。あとは、壁の石を一段ずつ積み上げ、その裏側に盛土を施していく工程を繰り返します。この盛土は、基盤の砂礫と、当時の表土が混じった黒っぽい層です。最後に天井石を載せて土を盛れば完成ですが、残念ながら天井石は失われています。

穂高古墳群F9号墳の石室内を調査する実習生たち。

Q石室には出入り口があると聞きました。

Aはい。F9号墳の石室は横穴式で、手前部分が「羨門(せんもん)」と呼ばれる入口になっています。そこから高さ50cmほどのスロープを降りると、石室の内部に入ることができます。羨門部分は、何度も開閉できるように人頭大の石を数多く積んで閉じていました。この出入り口用の石を「閉塞石」と呼んでいます。

Q何度も開けることがあるんですか。

Aそうです。古墳は、一度埋葬すれば終わりとは限りません。穂高古墳群は、古墳時代後期から、奈良時代初頭まで墓域として機能していたと考えられているのですが、F9号墳も最初の埋葬後、何度か開閉されたようです。羨門付近で多く出土している8世紀初頭の土器は、古墳における最後の祖先祭祀でつかわれたのかもしれません。ちなみに石室内からは、馬の骨も出土していますが、これは放射線炭素年代の測定によるとずっと新しい11世紀のもの。平安時代には、この周辺は牧場になっていたと考えられていますので、どうやら古墳の石室が何らかの用途で再利用されていた可能性もありますね。

Q石室の石は近くの川のものなのですね。

Aはい。200~300メートルほど離れたところを流れる烏川から運んだものだと考えています。当然すべて人力ですから、それなりに大変な作業だったとは思うのですが、同じ穂高古墳群でも、川に近い古墳では丸みのある川原石を、そうでない古墳では角張った山石を用いるなど、合理的に石材を運搬していたようです。一方、極端な話ですが、近畿・中国地方における5世紀後半から6世紀前半の古墳には、熊本県の阿蘇溶結凝灰岩で作った石棺が納められている例があるんです。中には大王の墓も含まれており、これらの古墳を築造する際には、わざわざ遠方の九州から珍しい石を運んでいた。こうした例と比べるのは飛躍がありすぎますが、石室や石棺の石材からも、古墳を作った人々の社会階層が見えてきます。

Q1400年前に埋葬された人物の身分までわかるなんてすごいですね。

A穂高古墳群でも、金メッキを施した馬具などを副葬している例もあります。しかし、F9号墳の石室床面から出土した馬具は、いわゆる宝物のようなものではなく、修理痕のある実用品でしたから、この地域でも中堅クラスの人物の墓ではなかったかと推理しています。おそらく生前、愛用していた馬具を一緒に副葬したのでしょう。ちなみにF9号墳では、馬の口にはめるクツワが2つも見つかっています。どうやら、この地域の有力者たちは、馬と深く関わっていた人々だったのでしょうね。

石室の床から出土した馬具。轡(くつわ)と見られ、最初に埋葬された人物と一緒に置かれた可能性が高い。

Q古墳から当時の生活までわかるんですね! 今後の発掘も楽しみです。

Aええ。今年も引き続きF9号墳の調査をおこなうことになりました。まだ、古墳の大きさや、周溝の有無など、明らかにしなければならない課題は沢山残っています。ぜひ期待していてください。

深澤 太郎(フカサワ タロウ)國學院大学准教授 専門分野 考古学、人類学 主要研究課題 日本列島における国家と「神道」の形成、山岳宗教の考古学的研究ほか